蜘蛛の糸
今回のコラムも前職でのお話しからスタートです。
それは約5年前のある日のこと…
当直明けに午前・午後の外来業務を終えた21時過ぎ、わたしは眠気と疲労感、空腹に耐えながら、夕方に救急外来から入院した患者さんのカルテを記載していました。
そのとき、背後から不意に声を掛けられました。
「そんな生活していたら、死にますよ。」
振り返ると、その日の当直医である澁谷裕之先生がいらっしゃいました。
澁谷先生はその半年前から同じ病院の総合診療科に勤務していました。
当時のわたしは、その病院に後期研修医として働き始めてから10年以上が経過し、仕事量が年々増えていく状況で、精神的・肉体的に疲労が蓄積していました。
わたしの所属していたリウマチ・膠原病内科では、入院患者さんの治療方針をチームで決めていましたが、夜間・休日の診療は私の担当であり、当番制ではありませんでした。
ICUに同時期に3人の入院患者さんがいた時は、すべての診療を私一人で行っていました。
“ここにいるかぎり、この状況は変わらない。わたしも年齢を重ねていく中でこれから10年、20年も同じように仕事を続けるのは無理だ。使い捨てられてしまう…“
そう感じていた時の「そんな生活していたら、死にますよ。」
―――その通りだと思いました。
わたしは発作的に上司へ辞表を提出しました。
上司は非常に驚いていましたが、退職を思いとどまるようにとおっしゃいました。
わたしは説得される形で辞表を取り下げました。
このまま同じ職場で働かなければならないという現実を受け入れるしかありませんでしたが、以前から興味のあった総合診療科の仕事にも携わるようになり、澁谷先生と行動をともにする機会が増えていきました。
わたしが初めて澁谷先生に出会ったのは、ドイツ風居酒屋で行われた彼の歓迎会の席でした。
とても明るくエネルギーに満ちあふれていて、タダモノではない人物だと思いました。澁谷先生のトークは楽しく、興味深いお話をたくさん聞かせていただきました。
医局の席を澁谷先生の隣に移してからは、より身近な存在になり会話が弾みました。
発想が柔軟で、いろいろなことを思いつき、瞬間的な判断で物事を進め、どんな相手にも堂々と自分の考えを伝える澁谷先生に、わたしはいつも感心するばかりでした。
そんなある日、澁谷先生から「みんなでワクワク楽しく仕事ができる新しい場所を一緒に創りませんか。」と誘われました。
新しい道に進むことは覚悟のいることでしたが、これまでの環境を変えるために訪れた一瞬のチャンスだと理解し、迷いはありませんでした。
「ぜひ、よろしくお願いします。」とお返事をしました。
―――「そんな生活をしていたら、死にますよ。」と言われることはもうないでしょう。
2020年1月末に病院を退職後、澁谷先生は医療法人メディカルビットバレーを創業し理事長となり、エールホームクリニックを立ち上げました。
開院当初、医師は澁谷先生とわたしの2名で、受診する患者さんが一日5人のこともありました。
2021年4月に、以前の職場で同僚だった田村先生をはじめ、新たに4名の医師が加わり、さらに今年(2022年)の4月からは3名が加わって常勤医師9名となりました。
スタッフの総勢は約50名で、現在では一日400人以上の患者さんが来院されます。
スタッフの人間関係はフラットで、個々が自身の立場で自由に意見を出し合いながら、より仕事をしやすい職場を創り上げていこうと努力をしています。
澁谷先生は理事長として遺憾なくリーダーシップを発揮されています。
あの時の澁谷先生からのお誘いは、わたしにとって、天上から垂れてきた一筋の蜘蛛の糸であったように思われます。
蜘蛛の糸は一見するとすぐに切れてしまいそうな頼りないものです。
しかし、そこで躊躇せず可能性を信じて蜘蛛の糸を登ったことで、新しい環境に入ることができました。
現在の職場では多くの患者さんの診察やワクチン接種に携わり、病院時代とは違った毎日を過ごしています。
最後に、今回も蜘蛛の糸について調べてみたところ、強度が鋼鉄の5倍、伸縮率がナイロンの2倍で、400℃の熱にも耐えられる「夢の糸」とされており、実用化に向けて世界中で研究が行われているそうです。
「夢の糸」が実用化されたら、どんなに素晴らしいものかぜひ実物を見てみたいと思っています。