エールホームクリニック

ドクターズコラム

2022年2月22日

これは2020年2月の出来事です。

お世話になった元上司に、活き蟹を送りました。
わたしは2020年1月に約14年間勤務した病院を退職し、その後の半年間を函館市で過ごしました。
当時はコロナ禍が始まった時期で、観光客が激減していた影響もあってか街は閑散としていました。
函館港のそばにある魚市場通には、食堂や鮮魚店が並んでいます。
わたしは毛ガニを購入するために一軒の鮮魚店を訪れました。
店内の大きな水槽には、十数匹の毛ガニが泳いでいました。

毛ガニの食用としての歴史は意外にも浅いものです。
太平洋戦争中から戦後にかけての厳しい食料品統制のため、売るものがなくなり、ある人が長万部駅の構内で統制外にあった毛ガニを茹でて立ち売りしたところ、たちまち人気が出ました。
こうして、今では蟹王国の北海道で一番人気のある蟹となりました。

それはさておき、わたしは店員さんに、「中型から大型の毛ガニは、5万円でいくつ買えますか?ちなみに届け先は新潟県です」と声をかけました。
店員さんは電卓をパチパチした後、「7杯、送料込みで49500円。買い物上手ね」と返事をくれました。
5万円は、退職時に元上司から「餞別」としていただいたものでしたが、活きた毛ガニをお送りして、元上司にお返しすることにしたのです。
無事に毛ガニを送った後、店を出て港にむかいました。寒風が吹きつけていましたが、よく晴れて青空が広がっていました。
元上司からの5万円が手元を離れたことで、わたしの心はこの日の青空のように非常にすっきりとしていました。
しばらくの間、波が立った青い海をぼんやり眺めていると、ここが小林多喜二の「蟹工船」の物語の始まりの地であったことを思い出しました。
わたしは港でたたずみながら、自分のこれまでの生活を蟹工船に照らし合わせて、さまざまな思いを巡らせました。
蟹工船は、ズワイガニ(楚蟹)を獲って加工する「工船」で沈没寸前のボロ船です。カムチャッカ沖の、高波がうねり凍てつくオホーツク海で、漁夫や雑役夫たちは家畜以下の扱いを受け、鬼のような現場監督のもと薄給で死ぬほど働かされます。
彼らの背景はさまざまで、東北や北海道の貧農、函館の貧民窟で育った15歳前後の子供、虐待に耐えてきた築港や鉄道工事の労働者などです。
彼らの多くは蟹工船の過酷な環境で身も心も病んでいき、病人は放置され亡くなっていきます。

余談ですが、現代のアラスカで行われているズワイガニやタラバガニ(鱈場蟹)の漁はYou Tubeで視聴することができます。
こちらも死の危険と隣り合わせですが、乗組員の人命を優先しており、漁師たちも一攫千金を狙って自分の意思で過酷な労働に身を投じており、蟹工船とはかなり違った印象です。

さて、わたしの前の勤務先での14年間を振り返ると、病棟あるいは救急外来から休日夜間関係なくオンコールを受ける日々でした。
病院という閉じられた箱の中で、求められればできる限りどんなことでも引き受けるのが、自分の生きる道であるかのように感じていました。
さまざまな理由により上司たちから依頼された患者さんの診療、毎週の休日回診、患者さんの急変対応を行ったのはもちろんのこと、上司たちに代わって夜間や休日に患者さんの看取りをすることなども全てが自分にとって当たり前の役割でした。
わたしは、自分自身の体調不良で仕事を代わってもらったことは一度もありません。
幸いにも体が丈夫で多少の無理はできましたので、自分に課された修行と思いながらそのような生活を10年以上続けました。
しかし心は次第に疲弊し、数年前に一度、発作的に退職届を上司に提出したことがありました。
この時は上司から慰留され、退職をいったんあきらめました。
蟹工船では、ばらばらだった労働者たちが団結し、鬼現場監督と対決して一度は屈するのですが、最後には全員が一致して行動を共にし、つらい状況を変えていきます。
わたしも、現在の職場につながる信頼し合える仲間たちに巡り会えた幸運が契機となり、前の職場を退職することができました。
そして、つらい状況を変えることができたと強く感じました。
その後、このささやかな幸せな気持ちのまま港を離れ、市営バスでアパートに帰ったのでした。
バス代は行きと帰り合わせてちょうど500円でした。

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